2016年の果樹園便り
禅宗の教えの中に、時薬(ときぐすり)というものがあるらしいのです。
人は誰しも親を亡くしたり、時には子を亡くしたり、また兄弟や愛する人を失ってしまう経験をするものです。
その時感じる喪失感は、それぞれ形は違うにしろ、当事者にとっては言葉に出来ないほど大きいものなのでしょう。
高名な良寛和尚は「悲しい時には悲しむが良かろう、苦しいときには苦しむが良い」それよりほかに仕様がないのだ、と申されたそうです。やがては、時薬が解決してくれるだろうと。つまり、時間が解決してくれるだろうと言うことなのです。
悲しみや苦しみという大きな氷が、少しずつ溶けて水になり、やがて大地に染み込んでゆく。しかし、心に空いた大きな空洞はその人の人生の中で、生涯消え去ることはないのでしょう。
それならばいっそ、埋めようとする必要は無いのかも知れません
真珠を作るアコヤガイは、その体内に異物が入りそれを核にして、長い時間をかけてあの美しい真珠を作るそうです。
私たちの心も、亡くしたものの想い出に長い時間向き合っていると、悲しみや辛さといったものが、心の経験知として蓄えられ、豊かな人間性としてはぐくまれる時があるのかも知れません。
今まで、心の中の大きな空洞は、自分の欠点だと思っていたが、実は人生の中で他人に対する思いやりとか、優しさとか、人として大切なものを育んでくれた、泉だったと気がつくことがあります。
なかなか、上手に歳をとることは難しいのですが、時折そんな歳の重ね方をしている素敵なお爺さんやお婆さんに会うと、自分もいつかはあのように老いたいものだ、という気持ちになります。
—風立ちぬ、いざ生きめやもー
一陣の風が吹いて私の背中を押してくれた。まるで亡くなったあの子が、生きている私を励ましてくれているようだ。
東北は、あの災害から5年経つのに、未だ傷は癒えないようです。
「世の中は 死ぬこと以外は かすり傷」
という川柳がありました。
還暦といわれる歳を過ぎ生きていると、多くのことを経験します。経験するということは、心が鈍感になるのではなくて、心の奥行きが広くなることが、上手に歳をとるということなのでしょうか。
私の人生、という透明な箱の中に、これまでの出会いと別れをみんな並べて、少し遠くから他人事のように俯瞰してみる。そんなとらわれない心を持ってもいいのではないか、そんな事を思うようになりました。
さて、会津もようやく朝晩の寒さがこたえるようになりました。果樹園では今年も林檎が赤く色づいてきました。