2017年の果樹園便り
木の実園は開園してもう50年あまり経ちます。お客様のほとんどが何10年という取引で、なかには創業時からお付き合い頂いている方もいらっしゃいます。代替わりされても秋になると「果樹園便り、早く送ってよ」と催促の電話を頂きます。テレビで台風や豪雨のニュースが報道されると「いや私のリンゴが心配でね」などと電話が来ます。有り難いなと思います。こちらもお客様というより昔からの大切な友人のような気持ちになってしまいます。
木の実園の創業者である父が3年前の5月に亡くなりました。87歳でした。
思い出を辿ってみれば、会話のあまりない親子だったなと思います。家庭では酒を酌み交わすこともなければ、大声で親子ケンカをしたという記憶もありません。よく言えば、遠くで見守っているというか自由放任主義とでも言うか。
足の不自由な人でした。戦争で負傷したらしいと人づてに聞いたことがありますが、戦争のことは口にしない人でした。
戦後、福島県農業博覧会が催されて、そこで初めて林檎の樹を見たのだと話していました。農業機械もない時代、泥田の作業には自分の身体は向かないからと、果樹栽培で身を立てようと考えたのかもしれません。当時はまだ農村は貧しく、食料増産の気運が高く開田や米の増収を図る技術がもてはやされた、そんな時代でした。
何年も失敗を重ね、少しずつ樹園地を増やして果樹園経営が軌道に乗り始めた頃、米は生産過剰になり、国の農政は減反政策に変わります。
「先見の明がありましたね」と褒められると「リンゴしか作れないから作っただけだ」と苦笑いをしていました。
新聞記者をしていた戦友の福島市在住の菅野さんとは生涯の親友でした。若いときから馬が合うというか、何かにつけ手紙や電話でやりとりをしていました。
検査で血液の癌が見つかり、春先からめっきり体力が落ち、病院に再入院していました。その日、暖かくなったら見舞いに行くといっていた菅野さんが到着したのはお昼近くで、朝からまちこがれていた父は、半身起き上がり二人は嬉しそうに話をしていたそうです。しばらくして「疲れたようだ、すこし休んでも良いか」と横になりそのまま眠るように逝きました。
幸せな生き方というものがあるとすれば、幸せな逝き方というものがあってもいいし、もしかしたら父は良い生涯を全うできたのかもしれません。
父と菅野さんの最後の語らいがどのようなものであったか聞かずじまいでしたが、想像を逞しくすれば、「ほら、逝くのは今だよ」「うん、分かったよ」「何の心配もないから」「ありがとう」。逝き時を知らせる老練なセラピストの役割を菅野さんは果たしてくれたような気がしました。
50年前に植えた樹は抱えられないくらいの大木になり、たくさんの果実を実らせました。赤く色づき収穫を待つばかりです。